KGK キリスト者学生会

心に刻むべき季節(とき) 高木実主事

  KGKのホームページの巻頭言が再開する前には、「生・性・聖」というシリーズで5回書きました。その終わりには、いつも次回の≪予告編≫を書きましたが、最後の5回目(多分2005年夏)は次のようにして終わっています。

  ≪予告編≫
  今まで、5回に渡って≪創造≫という視点から、性の課題について考えてきました。次回から、≪堕落≫という新しいテーマに入って、「堕落」によってもたらされた罪の結果としての性の現実ということを共に考えていきたい、と思います。

  この続きも書き続けるつもりでしたが、この巻頭言自体がなくなりましたので、途絶えていました。(興味を持って頂いた方は、バックナンバーをご参照下さい。)そして、そのシリーズ5回の内容も含め、さらに、その続きの部分も、その後「生と性――創世記1-3章に見る「男と女」」(いのちのことば社2006年発行)として、まとめて「陽の目を見る」(?)ことができましたので、そちらを読んで頂けたら幸いです。
  その執筆段階では、拙著の中で紹介しようと思っていた新聞記事がありました。結局は、編集者との調整の中で、削除することになったのですが、それは1992年に東京新聞(12/16号)の「この人」という欄…
  「戦後補償国際公聴会で『慰安婦』として証言したオランダ女性 ジャンヌ・ラフ・オッヘルネさん」
  その記事によると、「インドネシア・ジャワの日本軍強制収容所にいた1944年、21歳の時、強制的に慰安所に連行され」、処女だったにも関わらず、軍人や軍医にレイプされ、「妊娠し、無理やり流産もさせられ」ています。その体験は悪夢となって、その後の人生さえもむしばみ続けて、「いちばんつらいのは、夫が私を抱こうとすると、あの恐怖がよみがえること」と、あります。それは何と痛ましい証言でしょうか。彼女は、日本の軍人たちの性犯罪、性暴力の一方的な被害者なのですが、どれほど過酷な人生の重荷を背負い、心と体に深い傷を負ったことでしょうか。( このような話題には、嫌な思いをされる方もあるかも知れませんが、もしそうであれば、お赦し下さい。)
  「日本人が憎い」と叫びながら気絶した証言者もいたそうですが、その公聴会で、彼女は次のように証言しました。
  「自尊心、人間の尊厳、家族。日本人は、私からすべてを奪ったが、信仰だけは取り上げることは出来なかった。長い年月をかけ、信仰の力で日本人を許すことを覚えた。」
  彼女はクリスチャンだったのです。
  「なぜ神様はあの時、守ってくださらなかったのだろうか?」
  「神様を信じている私に、なぜこんなに辛い経験を味わわせたのか?」
という疑問も当然あったことと思います。それと共に、このような現実を受け止めることは、そう簡単には出来なかったはずです。それでも「長い年月をかけ、信仰の力で日本人を許し」、平和と和解の使者としてキリストにある愛と赦しの力を証しておられるのです。そして自らの心の深い傷も、神様への信頼の中で、癒され続けておられる様子さえ、その記事からはうかがい知ることができるように思います。
    「天の力に 癒しえぬ 悲しみは 地にあらじ」(讃美歌399)
  神様の癒しの御手は、かくも確かであることを感動と共に覚えます。(拙著で紹介したかったのは、この点でした。)
  しかし、過去の暗い歴史の中で、私達の国の罪深い行為によって傷つけたことを思うと、私たちとしても、本当に心痛み、言葉を失うのですが、ここには私たちの思いも及ばないほどの理不尽な悲惨、苦悩があります。にもかかわらず東京の千鳥ヶ淵戦没者墓苑で、「主よ、私をあなたの平和の道具として使ってください。憎しみのあるところに愛の種をまく人にしてください」(アッシジのフランチェスコの「平和の祈り」)と墓の前で祈り、旧日本兵らに赦しと和解の手を差し伸べた、というのです。この記事の最後は、「日本という国はこの手に触れるに値するだろうか。」と結んでいます。
  8月は、広島(6日)、長崎(9日)の原爆の日、終戦の日(15日)とあり、戦争と平和を考え、この国の過ちを心に刻むべき季節(とき)です。皆さんは、このようなことについて、どれくらい考える機会があったでしょうか。いや、8月に限ったこと(季節限定)ではありません。このようなことについて考え続け、私たちも「和解の福音」を受けている者として、平和と和解に貢献する者として用いられたいと思います。

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