『そうだ、読書をしよう。』
大嶋重徳(関東地区主事・元北陸地区主事)
 秋が来た。朝晩の日差しがすっかり変わった。北陸の秋は短い。しばらくすると頭を押さえつけるような曇った雲が空を覆う。そして長い冬が始まるのだ。それで、この短い秋をどのように堪能しようかと思いを巡らす。そうだ、読書の秋だ(何のひねりもない・・・)。

 学生の皆さんは、どれだけ本を読んでいるだろうか。クリスチャンは世俗の本など読んではいけないとは言わないで欲しい。カルヴァンは宗教改革後、ジュネーブで牧師達を育てる時にカリキュラムの中に古典を学ぶ時間を必ず入れた。宗教改革に立ち上がったユマニスト達の多くは、古典を見つめながら人間存在を問うたのである。そして人間の救いは聖書以外にはないと確信したのである。

 僕達が聖書を読むとき、そこで神の前に立たされている自分自身を知る。つまり人間存在を問われ、知るのだ。学内で共に聖書を読むときは、人間関係が露にされる。そして私達の人間関係がどれほど罪深く、傲慢であるかを知らされる。聖書は私達の生きている社会を映し出してくるのである。

文学とは、人間の、人間関係の、社会の罪深さをいかに克明に描くかということに力点があるものだと私は考える。文学に親しむ時、私達人間の罪深さを語る言葉に触れる。深く内面をえぐられるような表現に出会う。そしてその姿に自らを重ね合わせる。するとパウロがローマ書7章で告白した、あの自らの罪に対する悶える叫びがもっと親身になって迫ってくる。文学作品は、自らの信仰生活を立ち止まらせ、ものを考える機会を与えてくれる。

この秋、本を開こう。そして自分の罪深さを表現する言葉を持とう。そして聖書に照らし合わせて、自分は単なる罪責感に浸っているのではないかどうかを確かめよう。時折、私達は罪と罪責感を間違える。罪責感に覚える時、救いの光に目をつぶる時がある。文学は罪と罪責感を指し示すが、救いの光はそこにはない。しかし、聖書は人間を露にしながら、その人間の救いであるキリストを指し示す。文学には救いはないが、聖書には救いがある。キリストの語られた言葉の深みを味わい知る力を養って行く時、私達の聖研はありきたりな言葉を述べ合って終わることはない。そして私達の友人に届く言葉を持っていくことができるのではないか。

人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。 詩篇8:4
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