『批評は本論で』
服部滋樹(元東海地区主事)
 最近、何冊かアメリカの福音派学者による本や論文集が届いた。内容は少々きな臭い、ポストモダンの思想傾向をどのようにまたどの程度神学方法論に適用するかをめぐっての論争的なものであった。日本の福音派教会でもよく知られたE博士(組織神学者)やC博士(新約聖書学者)が、昨年来日したG博士(組織神学者)の所説を手厳しく批判している。アカデミー(学界)の出来事だから当然そういうこともあるだろうし、それがアメリカ神学界のある意味活力の証であるのかもしれない。

 しかしどうも気になるのは、米国内の論争は所詮「方法論」をめぐる論争で、結局その方法論を用いて肝心の中身である、例えば本格的な新約神学書や組織神学書を誰も著していないのである。つまり楽器演奏に譬えるなら、調律の仕方を互いに批判し合っている状態であり、肝心の演奏は始まっていないのである。聴衆はやがて呆れ、そして席を立つ。演奏の批評には意味があるが、調律の批評にはそれは無いからである。

 これ対して、英国の新約学者・W博士は は全7巻の新約神学叢書の構想を打ち上げ、すでに3巻までが出版された。また、同じく英国のM博士(組織神学者)は全体の基調にあたる全3巻のプロジェクトを一昨年完成させ、いよいよ本論である教義学の壮大な計画に着手しようとしている。こういった人たちに共通しているのは、方法論の論争に加わることなく本論の著述に集中していることであり、その本論の中身をもって公の批評を仰ぐ姿勢である。

 方法論をめぐる議論はもちろん必要である。が、ほどほどにしておかないと本質を見失い、本末転倒の過ちをおかすことになる。評価は飽くまで本論をめぐって行われなければならない。

 年報をご覧になったであろうか。高木主事による GAP の報告を見て私は改めて自らを恥じ入った。なぜなら、私自身がかつて GAP を冷ややかに見ていた者であり、その評価はおおむね方法論の批評に終始していた。「若者伝道の行き詰まりへの突破口」という重要なテーマに対して、関西地区主事会および同地区の卒業生会・協力会が地道に具体的な計画を練り上げ、ついにはひとつのシステムを作り上げた。テーマの体現に集中された関西地区の取り組みはまことに賞賛に値する。彼らからすれば評価はまさにこれからというところであろう。

 本質を見失わない、見誤らない目をいつも備えていたいものである。主よ、私たちをあわれんで下さい。
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