温故知新
老松望(関西地区主事)

昔 外国語学ぶなら 無論辞書などなかった
  訳書を母国語で安価に読めるのに
ゲームで一日が終わってしまった

何が裕福だ 惨めなだけじゃないか
掃き捨ての木偶のロジー(technology) 人間疎外の布陣
深夜のテレビは見れども報われず
消費するだけの日常 人生さえも消耗

さようなら 幾何ザル(行かざる) 溢る構図に見向きもしないで

いつしか僕らは疲れ果ててしまうだろう
世界を呑み込む経済循環の中
されど立ち止まれないのが世の常で

故きを温ねよ
キリスト曰く
『無クテハ成ラヌ モノ多カラス』
『重荷負フモノ』、『ワレ門ナリ』


『知られざる奥義』より

これは、僕のKGK時代の先輩が書いた歌詞の一節です。(先輩! 勝手に掲載してごめんなさい!笑)

細かいところはわからなくても、だいたいの意味はつかめるはずです。そして、皆さんにも、何となく心当たりがあるのではないでしょうか?「忙しい!」「やることがいっぱい!」と言いながらも、実は結構時間を浪費している…それが現実だと思います。それは、僕も他人事ではありません。

神学校に入って、語学の学びを始めた時、翻訳という仕事の大変さを身にしみて感じました。たったの一章を訳すだけでも、一時間も二時間もかかってしまう。今、自分が手にしている母国語の聖書は、決してあたりまえのものではないと痛感しました。辞書も無い時代に、この業に取り組んだ人のことを思うと、気が遠くなるようでした。けれど、普段聖書通読をする時や教会でメッセージを聞く時に、どれほどそのことを意識し、どれほどその一つ一つに真剣に向き合っているのかと問われると、恥ずかしいかぎりです…。

皆さんはどうでしょうか?

「まことに、その人は主の教えを喜びとし
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は
水路のそばに植わった木のようだ。

詩篇1:2-3a


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