クリスマスの備え
吉澤慎也(東海地区主事)

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ2:6-8)

11月になった。巷ではクリスマスソングが流れ出し、華やかなイルミネーションに目を奪われる。僕は、そういう世間一般のクリスマスの喧騒が必ずしも嫌いなわけじゃない。楽しいとも思う。ただ、それが救い主イエスの降誕をお祝いしているのだと言われると、ちょっと違和感を覚える。だってイエス様の誕生とは、上記の御言葉のような出来事だったのであり、そこにはお祭りムードもロマンティックな気分も欠けらだって無いと思うからだ。

私たちはクリスマスを迎えるにあたって、自分の外側から取り込まれていくようなことはあまりしたくない。街頭の雰囲気に合わせて、クリスマスの諸行事の準備に合わせて、段々とクリスマスモードにシフトチェンジしていく、というのではなくて、自分の内側に確かにあるはずの、イエス様が私たちの救い主として生まれてくださったという信仰からクリスマスを迎えるようにしたい。クリスマスの真の喜びと感謝は、そこからしか生まれてこないはずだから。

そして、決して派手で陽気である必要はないので、むしろ静かに穏やかに、上の御言葉に示されたような主イエスの生涯を思い巡らしながら、そのご降誕を心からお祝いする。そんな礼拝を、クリスマス本番にはさせていただきたいと思う。そのために、クリスマスの準備に追われるこの時期にこそ、その意味をもう一度深く心に刻みたいものだ。


11月になった。クリスマスの備えをするのに、きっと早過ぎることはないだろう。


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