『生・性・聖』その3
高木 実(関西地区主事)

聖書の「創造」に関する教え(創造論)は、自分をどういう者(存在)として理解し受け止めるのか...ということ(アイデンティティー)に大きな影響を与えます。
自分は、たまたま偶然に生まれてきた存在で、男(あるいは女)に生まれてきたことにも、もともと与えられている、ある明確な意味というものはないのか...?
それとも明確な意図をもって造られ、そのために「生」そして「性」も与えられているのか...?
このような課題を、どのように理解し、どう受け止めるか、ということに、この「創造」の教えは、非常に大きな影響を与えるものだ、ということです。
そのようなことも踏まえ、神の「創造」の御業と自分の「生」(誕生)ということを深く結び付けて、神の恵み深さを歌っている詩篇139篇13節から16節を、今回は味わいたいと思います。

<"fearfully and wonderfully made">

「私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」(13)のは創造主なる神である、と告白しています。
この「組み立てる」という動詞は「織る」と訳すことができ、まるで布を織るかのように神が胎児である人間の筋肉とか骨などの体の各部分を織り上げられた、というイメージです。
英語訳(New International Version)では"knit"(編む)という言葉を使っています。
例えば、妊娠中の女性が、生まれてくるお腹の赤ちゃんの為に、毛糸の靴下や帽子、ベストなどの編みものをする、ということがあります。
そこには、お腹の赤ちゃんを心から慈しむ思いが込められて、一つ一つが大事に大事に編み上げられていき、そこに何とも穏やかで幸福感に満ちたお母さんの表情や情景を思い浮かべることができますが、丁度そのようなイメージも、この言葉の理解にはピッタリかも知れません。
私たち人間のいのちの誕生は、創造主なる神様によって、そのように大事に大事に編み上げられていた、ということが、この言葉から知ることができます。
この御言葉を自分のこととして受け止めるとき、そこには、大きな驚き、畏敬の念、深い感動があり、続く14節では、それが神様への感謝となり、それが「恐ろしいほど(fearfully)」「奇しいこと(wonderfully)」(14)と告白されています。

そのような感動と共に、「私のたましいは、それをよく知っています。」(14)...と、さらに深い納得が心のうちにあることを告白します。
まさに私たちは「畏るべく奇しきもの」(文語訳)として造られ、いのちが与えられているのです。
しかし私たちには「それをよく知っています。」とは必ずしも言えない現実があるかも知れません。
そういう現実があればあるほど、「それをよく知っています。」と御霊によってしみじみと言えるように、この14節の御言葉から深く受け止めさせていただく時を待ち望みたい、と思います。

<主の眼差し>

さらに「私はひそかに造られ、地の深い所で仕組まれた」(15)...と、自分の誕生が、人間の視線が全く届かないところでなされたことを強調した上で、それにも関わらず、その「私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした」(15)と語ります。
つまり、この生命の誕生という、驚くべき神秘としての事実を、人は全く知る術もない訳ですが、それさえも神には、明らかに知られている...否、知っていただいていたのだ!ということの厳かさを詩っています。
ですから「胎児の私を見られる」主の眼差し(「あなたの目」16)というものが意識されています。
神谷美恵子さん(長島愛生園でハンセン氏病の治療に献身)が、実に興味深いことを書いています。

「人生への出発はいつかといえば、まさに受胎の瞬間とみなすべきであろう。もちろん本人も母親も、ましてや父親もそれを自覚しているわけではない。このことは、考えてみれば、おどろくべきことである。自覚的存在であるのが特徴といわれる人間なのに、その生の出発点が、自分にも他人にも気づかれないのだ。人生は発端からして人間の意識を超え、同じく終末も意識のまどろみの中で迎えるようにできているらしい。」(神谷美恵子「こころの旅」p.8〜9)

意識し自覚する存在であるにも関わらず、人の生の出発点(受胎の瞬間)というものは、本人も母親も、誰も自覚していない...。
ところが、創造主なる神を知るということは、そのような誰も気づかず意識しない小さな私の誕生に対しても、それは決して偶然でもなく、「ああ、神様が慈しみにみちた眼差しをもって立ち合ってくださっていたのだ!」と、創造主なる神による「承認」があったことを知ることになるのです。

あなたは、自分の「生」(誕生)、あるいは「性」というものに対して、どのような見方、受け止め方をしているでしょうか...?
どうも積極的に受け止められない、という人もいるかも知れません。
いろいろな事情があって、そう思わざるを得ないようなことばかりで、自分の「生」あるいは「性」を積極的に受け止められない、というような現実も仕方のないことだったのかも知れません。
しかし、現実がそうであったとしても...否、そうであればあるほど、そのことをさらに超えて、もっと大事なことは、神の眼差しはこの私の「生」そして「性」をどう見てくださっているのか、ということではなのです。

<誕生日祝い――存在の喜び>

かつては誕生日を祝う、なんてことは、それほど重要なこととは、私は考えていませんでした。
ですから人の誕生日なんかは、基本的にはほとんど覚えたことがなく、KGKの学生たちが「あ〜今日は○○ちゃんのお誕生日や〜、おめでとう!」とか言っていると、実は心の中で「大学生にもなって、お誕生日おめでとう...もないだろう。」と、極めて冷ややかな思いを抱いていました。
ところが自分が親になって、はたと気づかされたことですが、長女の1歳の誕生日のとき、「子供の誕生日を祝うということは、この子の存在そのものを喜ぶことだ!」と、はっきりと分ったのです。

結婚してから、この子が与えられるまでには、本当にいろいろなことがありました。
一人目の流産、それから長い不妊治療、やっとまた妊娠と喜んだら、またいつ流産するかも分からないと言われ、それでも何とか出産までたどり着くと、今度は出産時には心臓停止....。
だから尚更でしたが、1歳の誕生日のとき、「1年前のこの日、この子が生まれた...その誕生日を祝うということは、その与えられたいのちと存在そのものを心から喜ぶことなのだ!」としみじみ分かったような気がしました。

かつては誕生日を祝うことなんかは、それほど重要なこととは考えてもいなかった、そういうあまり感情や情緒の豊かではなかった私のような欠けだらけの者でさえ、親になってみると、自分の子供の誕生とその存在そのものを心から喜んでいるのです。
ましてや真の愛そのものであられ、創造主であり、私たちの真の父なる神は、私たちの誕生をどんなにか喜んでくださっていることか...ということを、ぜひ考えてみてください。
「胎児の私を見られる」主の眼差しは、どれほど愛に満ちた眼差しであったか、とぜひ想像力豊かに思い巡らしてみてほしいのです。

<神が縫われた刺繍模様>

さて15節の「仕組まれた」という言葉は、「刺しゅうを施される」という意味を持つ言葉です。
アウグスティヌスは、私たちの人生を、神が縫われた刺繍のようなものだ、と美しく例えました。
それは私たち人間の側、つまり裏側からだけ見ているので、ただ糸が絡まり合っているようにしか見えなくて、よく分らない...。
しかし、神の側から見ると、それは見事に美しい刺繍模様であるはずだ、というのです。
それと同じように、私たちの「生」の現実も、自分の「性」に対する受け止め方も、私たちの視点からだけ見ると、確かに糸が絡まりあっているようにしか思えない混乱や混沌という現実があるかも知れません。
しかし、それをデザインされた創造主なる神の目から見ると、それはまさに色とりどりの美しい刺繍模様が施された見事なものに違いないのです。
その神の目から見たとき、私たちは「畏るべく奇しきもの」(文語訳)に他ならないはずです。

創造主である真の神を知る、ということは、私の「生」の始まりの瞬間から胎児の私を見守られた、主の愛の眼差しを知り、私たちの「性」をも含んだ「生」そのものを喜んで、私たちの存在を承認し、根底から肯定してくださる方を知る、ということにも繋がっていくことなのです。
それは何と幸いなことでしょうか。
その幸いを心深くに受け止めさせていただきましょう。

《予告編》

次回は、「神のかたち」ということから、男と女、性ということについて学びたい、と思います。


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