『長いつきあい→深い交わりへ』
松元 牧子(関東地区主事)

長い間連絡を取っていない友達から年賀状をもらうと「あ?、結局去年も会えなかった。というか、会おうとしなかったな・・」と、少し後ろめたさを感じる。親しい友達が徐々に単なるつきあいに変わっていくのを感じるのは悲しい。「つきあい」は、つきあいでしかないからだ。

大学時代から長く続いている一人の友人がいる。3年のゼミが一緒でキリスト教にも興味があり、学内の伝道集会にも来てくれた。卒業後は年に数回しか会わないが、不思議と疎遠にはならず、もう7年のつきあいになる。私は彼女にイエス様を伝えたいと願い、教会の伝道集会やクリスマスがあると連絡を取り、誘ってきた。そして彼女は毎年クリスマスには礼拝に来てくれている。しかし、2年程前彼女に「私がキリスト教を信じる気がなくても、友達でいてくれる?」と聞かれたことがあった。ショックだった。社会人になり会う回数が減るにつれて、徐々に私が彼女に伝道する対象としての関心しか持たなくなっていた。その本心を彼女に見すかされ、穴があったら入りたい程自分が恥ずかしかった。その彼女が今年クリスマスに自分から礼拝に行きたいと連絡をくれた。礼拝後、お茶を飲んでたわいもない話しをしている時に、彼女が自分の本当の不安や恐れを涙を浮かべながら話してくれた。それは彼女が初めて分かち合ってくれた本当のよわい、もろい姿だった。私はただ黙って聞いて、また会う約束をして別れたけれど、友達としてのつきあいが深い交わりへと変えられつつあることを感じて本当に嬉しかった。時間をかけて変えられてきたのだ。

2004年が始まり、また1日ずつイエス様が共に生きて下さる。弱く、自己中心で、いい加減で、いとも簡単に変わりやすい私達はイエス様との深い交わりを求めつつも、簡単に表面的なつきあいにしてしまう。けれどイエス様は今年も、今日も変わらず「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)と言われる。私達がイエス様をあきらめても、イエス様が私達をあきらめず、見捨てない。このイエス様の愛が土台にあるからこそ、私達は表面的なつきあいから主との深い交わりへと導き入れて頂けると希望を持てる。バタバタとイエス様の前を走り回り、ときどき思い出したかのように近況報告をする・・そんな「つきあい」ではなく、腰を据えて深い交わりに入れて頂きたいと思う。そして主が出会いを与えて下さった人達とも時間をかけて深い交わりに変えて頂きたい。


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