『キリストはどこにおられるのか?』
大沼 孝(総主事)

 イエス様は僕たちに『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』(マタイ28:20)と約束してくださっている。しかし、毎日の生活の中で、家族や友達や同僚との関わりの中で、僕たちは、いったいどこでキリストが共におられることを体験するのだろうか。キリストは、僕たちの人生のどんな場面でそのお姿を僕たちにはっきり見せてくださるのだろうか。

 先日、礼拝で説教を聞いている途中、急に具合が悪くなった。我慢しきれず、礼拝堂を出て、玄関にある長ソファーに座って休んでいた。それに気付いた牧師夫人や伝道師の先生が「大丈夫ですか」と声をかけてくださった。僕は目を瞑って、スピーカーから聞こえてくる説教を聞いていた。すると、僕のすぐ右隣に誰かが座ったのを感じた。目を開けると、いつも教会で出会う自閉症の男の子であった。彼は多分、10歳くらい。存在は知っていたが、話をしたりしたことは一度もなかった。今行っている教会は200人以上もいるので、話をしたことのない人のほうがずっと多い。

 その男の子は、僕の隣に座って、ぴたりと体を寄せてくれた。自閉症の子は身体的接触を好むと聞いていたので、僕は目を瞑ったまま、彼のほっそりとした肩に腕を回した。しばらくすると、彼が立ち上がるのを感じたが、今度は僕の膝の上にちょこんと座った。僕は両腕で彼を抱えた。すると、彼は体の向きを変え、目を瞑ったままの僕の右頬に実に優しく口づけしてくれた。やがて、彼は僕を離れて、お母さんのところへ行った。
 礼拝が終わりに近づいたので、僕は礼拝堂に戻ったが、僕は内側が何かとても温かいもので満たされているのを感じていた。それは、彼が僕にしてくれたことの結果に違いなかった。

 そして思った。イエス様があの男の子を通して、僕に触れてくださったと。あの子の中におられるイエス様が僕に触れてくださったのだと。

 この礼拝堂には、200人以上の人がいる。僕が具合が悪いと分かれば、多分皆気遣ってくれるだろう。だけど、あの男の子がしてくれたようなことを、僕にすることができる人は誰もいないだろう。(妻はそうしてくれるだろうが、さすがに人前では、はばかるだろう。)

 不思議なことだが、あの子が人前にも関わらず、僕の隣にぴったり座り、口づけまでしてくれたのは、彼が自閉症という、病いを負っているからだと言えよう。イエス様が、僕に触れて、僕を癒すために用いたのは、200人以上もの健常者の大人たちではなく、礼拝堂の一番後ろで叫んだり、通路で寝転がっている、あの自閉症の男の子だったのだ。また同時に、僕が元気を失い、言葉もなく、目を閉じて、座っていることしかできない時、初めてその男の子は僕の隣に来てくれたことも、思い巡らすべき事柄だ。基本的に攻撃的で威圧的な僕が、具合が悪くて、弱々しくなったとき、あの男の子は初めて僕のところに来ることができたのだ。

 僕は、自分自身の毎日の生活の中で、イエス様が御業をなさるということを一体、どのように理解しているのだろう。イエス様が、人を用いるということを、どんなふうに考えているのだろうか。僕はもちろん、『わたしの力は、弱さのうちに完全に現れる』(2コリント12:9)というみ言葉を知ってはいる。だけど、外見や能力や効率や実績や人間的魅力といった、もしかしたら聖書的な価値基準とはずれたものに惑わされて、弱く小さい者のうちにおられるイエス様の姿を見失っていないだろうか。裁きの日、救い主は実は「空腹であり、渇き、ホームレスであり、服もなく、病気で、しかも囚人であり」(マタイ25:31-46)、「見とれるような姿もなく、見栄えもせず、人が顔をそむけるほどさげすまれている」姿をとっている(イザヤ53:2,3)ことを僕たちは知ることになる。僕たちはやがて、みすぼらしい僕自身の中に、キリストがおられたことを知るだろう。僕たちはやがて、僕たちが顔をそむけてきたあの人の中にキリストがおられたことも知ることになるだろう。

 ならば今、僕たちは、毎日の単調な生活にも、必ずしも喜べない出会いの中にも、そこにイエス様がひそんでおられ、日毎に又一人一人の中に、イエス様を発見する喜びと驚きを楽しむことができるのではないだろうか。


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