「証人喚問にそなえて」
安藤 理恵子(関東地区主事)

 原稿通りにしゃべっている国会中継にはあまり興味がわかないが、感情が激している政治家を見るのはおもしろい。追いつめられている人がどのような顔でどのような発言をするのかに、興味をそそられる。発言台に立って答える表情や態度を見ながら、その人が信頼できる人かどうかを考える。どこまで本気なのだろう、どこまで嘘なのだろうと思いながら。
 いつか自分も、こんな風に証言台に立たされることがあるだろうか。衆人環視の中、善意で解釈してくれる人などいるわけもない、言った先から揚げ足を取られる状況下で弁明を求められたら、中途半端な自己防衛や責任転嫁を口走ってしまうかなあ・・・。
 反対の意見を持つ人々に囲まれた時にも、いのちを賭けて、信じている通りのことをいつも通りに発言できる者でありたいと思う。そうでなければ、私が地上に残されている意味がないからだ。

 キリストを信じる者は、イエスの復活の証人として地上にとどめられている。昇天のときにイエスが宣言したとおりだ。
 「あなたがたは・・・エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」使徒1:8
 弟子たちは自分の存在意義はキリストの証人であることだと認め、それを宣言し続けていた。
 「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」使徒2:32
 裁判の度ごとのパウロの弁明がいつも一貫していたので、聞いている人々はその主張を要約できるようになったくらいだ。
 「(パウロを訴えた者たちが)、彼(パウロ)と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。」使徒25:19

 私たちの弁明は、自分自身についてではない。自分がクリスチャンとして立派であるとか、教会にいる人は優しい人ばかりだとか、キリスト教徒のしたことはすべて歴史上間違っていなかったとか、そんなことについてフォローアップする必要はない。私たち自身の不正や失敗について人に問われたら、弁解の余地なく、素直に謝るしかないのだ。しかしどんなに致命的な失敗や罪を犯したとしても、私たちにはすばらしい弁護人がいる。そしてこの方が清算してくださったおかげで、私たちの罪に関する債務証書はすべて効力を失っている。私たちはもはや自分の罪について追及されることはないのだ。私たちが釈明するのは、自分に関することではなく、神の子であるイエスに関してである。この方が今生きておられること、この方こそ唯一の救い主であることを指さし、弁明し、主張し続けるのが私たちの仕事だ。

 私たちの周りは、未信者の観察者でいっぱいだ。立っているその位置がそのまま証人台となっている。人々があなたを見ている。どこまで本気だろうか、どこまで嘘だろうか、と。誰の話をしているか、どういうことを信じているか、確信をもっているか、ごまかしているか、一貫性があるか、本当にわかって話しているのかを見ている。
 今日も自分に与えられたステージに、キリストの証人として立とう。私たちにとって、キリストを信じたときからすでに証人喚問は始まっているのだ。

 「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」第1ペテロ3:15-16


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