「自分の召しに忠実に −アリスター・マクグラス先生との思い出−
服部 滋樹(東海地区主事)

 『それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。』

(ピリピ人への手紙3章16節)

 先日、ある神学校の卒業式に出席した。卒業式に続いて、10名ほどの卒業生の証詞の時間があった。皆、口々に3年間なり4年間の学びが大変であったことを述べていた。私も5年ほど前にイギリスの神学校を卒業していたので、その気持ちは良く分かった。神学校の生活は奉仕教会とか共同生活といった実践面・人格形成面での苦労もあるが、まず誰でも面食らうのは学びの厳しさであろう。ギリ\シャ語・ヘブル語といった聖書原語の習得にはじまり、レポートや宿題の嵐、試験や卒論といった学びの面での試練が続くのである。そして謙虚な学生であるなら、とりわけこの分野で教師と自分のレベルの違いに愕然とするであろう。その上に教師の豊富な経験に圧倒されるのだからたまったものではない。ユダヤの格言に「勉強したければ図書館に行け。神学校とは偉大な教師の前に座ることである。」という言葉があるそうである。教師に圧倒され、仲間の賜物に圧倒され、神学校での学びとは、ある意味自分のコンプレックス、そしてその裏返しである優越感との戦いの日々であるとも言えよう。

 ご多分に漏れず、私も神学校時代コンプレックスで大いに悩んだものであった。私はどういう間違いか1994年から97年の3年間、イギリスのオックスフォード大学にあるウィクリフ・ホールというイギリス国教会内福音派の神学校兼研究機関で学ぶことになった。それまでの30年ほどの人生の中で、頭の良い人(秀才?)には数多く出会ってきたが、およそ<天才>と呼べる人との出会いは皆無であった。けれども、私の組織神学や弁証学の教師であり、後にウィクリフ・ホールの学長になったアリスター・マクグラスという先生はまさに天才と呼べる人物であった。

 この先生は1953年に北アイルランド(英領)のベルファーストで生まれ、学生時代はオックスフォード大学で分子生物学を専攻した。もとはマルクスに傾倒した共産主義者であったが、学生時代に大学のキリスト者学生会運動に接し、キリスト教信仰に入った。学部卒業後、大学院に進み、分子生物学で博士号を取得した。最近、いのちのことば社に限らず、他の出版社からも先生の本が邦訳出版され、そこでプロフィールが紹介されているが、若干不正確な部分がある。私は本人から直接確認したが、(本などで紹介されているように)博士号を取得してからキリスト教神学に転向したのではなく、この先生は分子生物学の博士論文を書きながら同時並行で神学の学士過程を勉強していたのであった。博士論文は優秀論文賞を受け、神学の卒業試験はユニヴァーシティー・プライズと呼ばれる大学全体の最優等の成績で卒業した。その後、国教会の牧師を3年ほど勤め、1983年から現在に至るまでウィクリフ・ホールで教鞭をとっている。十数カ国語を理解し、読書量は膨大であり、多数の本や論文をものし、その記憶力は驚異的であった。おまけに説教や講義の賜物にも恵まれていた。まさに恐るべき子、アンファン・テリブルであった。ちょっとシャイで人見知りするところがあったが、キリストの香りを放つ人格者であり、ジェントルマンであった。

 私の神学校時代はこの天才に憧れ、同時に、自分との圧倒的な能力と賜物の差に打ちひしがれ、劣等感に悩まされる日々でもあった。私に限らず、ウィクリフ・ホールの学生は皆例外なく「自分もアリスターのようであったら・・」と思ったはずである。

 ウィクリフ・ホールでは各自がフェローシップ・グループという1グループあたり10名ほどのグループに属し、そのグループにつく教師が1年間の勉学と生活を指導する自分の担当教師となる。私の場合、3年間を通じてデイヴィッド・ウェナムという新約聖書の教師がその担当教師であった。学問と霊性が見事に調和した素晴らしい神の人であり、今でも尊敬して止まない方である。ところが3年生の春学期(1-3月)、ウェナム先生は研究休暇を取るため、その学期は当時すでに学長であったアリスター・マクグラス先生が代わって私たちのフェローシップ・グループの担当教師となることになった。次の夏学期(4-6月)にはオックスフォードの学生であれば誰でも震え上がる<ファイナルズ>と呼ばれる最終試験を控えていたため、3年生は皆極度に緊張していた。

 私は当時、試験に圧倒されていたがそれ以上に劣等感に苛まれ、自分の召命とビジョンを完全に見失っていた。毎日が孤独と不安の連続であり、自分が何の価値も無い人間のように思われた。そしてことある事に「ああ、アリスターのようであったら・・。」とつぶやいた。

 やがて学期末も近づいたある日、担当教師面談のため私は学長室にいた。蔵書に囲まれ、机の上には書類が散乱した室内に入るとマクグラス先生からソファーに席を勧められた。
「今学期はどうでしたか?」
「試験のプレッシャーに押し潰されそうです。自分が本当に無力で無能に感じます。それに比べて先生は本当に素晴らしい。先生のようにできなければ意味が無いとすら感じることがあります・・・。」
「・・・君からの賛辞には感謝を述べておこう。でもね、君は神様が君自身に何を求め期待しているか、つまり君にしか与えられていない召命というものにきちんと目を留めないといけないよ。僕の賜物を褒めてくれるのはうれしいけど、でも日本の大学生に日本語で福音を届けるという仕事は、たとえ僕がどんなに努力しても決してできないことだ。それは君にしかできないことなんだよ。私の仕事と君の働きとの間にはいかなる優劣もない。なぜなら、それは神ご自身が君に託された仕事であり、召命であるからだ。」

 こう語って、マクグラス先生は私とピリピ書3章を開かれ、パウロがこの箇所で述べていることを一緒に確認した。私は目から鱗が落ちる思いであった。3章4節から、パウロは人間的な観点から自分のメリットについて語りつつ、しかし、キリストの福音の前にはそれらが一切損と思うようになったことを述べている(7-8節)。そして自分自身は神から与えられた賜物に感謝し、ひたむきに栄冠目指して走っていることを胸を張って証ししつつ、しかし、16節で「それはそれとして、すでに達しているところを基準として、進むべき」ことをピリピの信徒たちに奨めている。私はこの御言葉によって自分の召し・ビジョンを取り戻した。

 私たちは決して高い目標をあきらめる者ではないが、他人との賜物や能力の比較ではなく、 神が自分に望んでおられることに集中することがとても大切なことではないか。そして神は主イエス・キリストの恵みの故に、あなたの今達しているレベルから召命に応えて始めの一歩を踏み出すことを喜ばれる。劣等感でも優越感でもない、ただあなたにのみ委ねられた主からの使命である。東海地区主事として(そして4月から北陸地区兼任も)遣わされ立てられている恵みに感謝している。


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