「その人にとってあなたは何人目のクリスチャンですか」
嶋田博考(北海道地区主事)

 北海道地区の学生のなかでこんなことがありました。Aさんの家庭はクリスチャンホームでした。そのご両親はある家族の救いのために祈っていました。一度も会ったことはなかったのですが、その家族が試練のなかにあると聞いたからです。その数年後、祈られたほうの家族の子がイエス様を信じました。それがBさんです。
AさんとBさんは大学生になってKGKの交わりで初めて会いました。
そして、以前から祈りによってつながっていたことがわかり、Aさんの家族にとって大きな感動でした。

 一人の人が救われるために、何人の人が祈り、何人の人が関わるのでしょうか。何かの店のポイントカードのように、何人たまると救われるということではないでしょう。人それぞれです。しかし、確かに人は何人かの人の祈りと関わりを通して救われるといえるでしょう。あなたの救いのために祈ってくれた人たちを思い浮かべることができますか。思い浮かべることができるなら感謝ですね。しかしまた、その人たちで全てとは限らないでしょう。

 私は養護学校で勤めていた頃、職場の同僚の先生の何人かに聞いてみたことがあります。「私は何人目のクリスチャンですか」と。答えはそれぞれでした。「中学生のとき宣教師の英会話に行っていました」、「全く初めてです」、「前に一緒に仕事していた人が牧師をしています」などなど。以前にクリスチャンとの関わりがある人については、「この人のために祈るのは自分が初めてではない」という不思議な喜びと励ましがありました。一度も会ったことはない、そのクリスチャンの方とのつながりをも覚えました。そして、私が初めてという人には、クリスチャンとしての責任を改めて感じました。

 「自分が何人の人に証しした、祈った」ということもできます。しかし、その人の立場にたってみる視点も必要ではないでしょうか。「この人の人生において私は何人目のクリスチャンだろう」と。「ここで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(Tテモテ2:1)」


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