「聖研に集うべき人々」
大沼孝(総主事)

 教会にはいったいどんな人が集うべきなのだろうか。『わたしは正しい人を招くためだはなく、罪人を招くためにきたのです。』とイエス様は言われる。ところが、クリスチャンの群れの姿には、自分を罪人と表現できない程に痛んだ人が小さくなっている、そんなことがあるのではないか。

 私がクリスチャンになったばかりの大学2年生の頃のことであるが、私たちの教会に年輩の男性が来るようになった。話していることは支離滅裂で、あちこちの教会を転々と渡り歩いているらしい。彼はある時教会にお茶を献品した。彼は自分の気持ちをそれで表したのかもしれなかった。でも私はそのお茶を飲むのさえ嫌だった。こんな人がなぜ教会に来るんだろうと感じていた。その思いを未信者の友だちに話した。すると友だちは私にこう言った。「じゃあ大沼君はなんで教会に行ってんの?」それは、自分の醜さに気付かされた一言だった。

 今年3月末に東京事務所に移ってから、片道75分の通勤が始まった。満員電車の中には様々な不快な人々がいる。私の耳元で歯をせせりながら臭い酒息とげっぷを吹きかけてくる者。傍若無人な態度で足を投げ出し大声で談笑する者。ウオークマンの耳障りなシャカシャカ音をまき散らす者。「みんな消えてしまえ!」と叫びだしたくなる。でももし私の迷惑にならない人だけが残ることができるのならば、一体何人が電車に残ることができるのだろうか。私だって沢山人に迷惑をかけながら、周りの人たちの忍耐のゆえに生かされてきた者ではないか。

 自分こそが正しいと思う態度の蔓延が聖書研究会に空席をもたらしていないか。聖研のまだ満たされていない椅子が、罪人によって一つ一つ埋められていくことを祈る。


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