「御霊の与える剣・神のことば」
広橋信一(北陸地区主事)

 パウロが獄中から書いたエペソ人への手紙の終わり(6章)に書かれている神の武具。彼はすべての武具を身に着けるようにと勧めた上で、それらをとり、しっかりと立つようにと書いている。腰には「真理の帯」、胸には「正義の胸当て」、足には「平和の福音の備え」をはき、これらすべてのものの上に「信仰の大盾」、「救いのかぶと」をかぶり、「御霊の与える剣である、神のことば」を受け取りなさい、と。

 なぜ、これらの武具が必要か、それは私たちのこの地上での格闘がこの暗闇の支配者達、天にいるもろもろの悪霊に対するものだからだというのだ。

 これらの武具をみて、なにかに気付くだろうか。実は私も先日聖日礼拝の中で気付かされたのだが、「帯」も「胸当て」も足にはく「福音の備え」も「大盾」も「かぶと」もすべて身を守る防具であり、剣だけが攻撃の道具なのだ。すべての防具は確かに悪魔から身を守る為にとても大切なものだ。しかし、それらに身を固めただけで戦場に飛び出してゆく兵士がいるだろうか。それでは、丸腰で相手の前にでてゆくのと同じ事である。いくら日頃体を鍛えている強靭な体力の持ち主であったとしても攻撃に耐えるにも限度がある。

 悪魔は色々な形でキリスト者の持つ信仰に罠をかけ、攻撃してくる。彼らの策略は実に巧妙だ。真理を曲げ、不義を語り、争いを巻き起こし、不信仰に落としいれ、人を滅びへと陥れようとあらゆる作戦で隙あらば付け込もうと狙っている。そんな彼らの前にみことばによって武装していない丸腰のキリスト者が出て行ったらどうなるだろうか。結果は火を見るよりも明らかである。

 「御霊」の与える剣とあるが、聖霊の神はみことばによって私たちを教え、聖書によって私たちに働き、真理を悟らせてくださる。だから、もしも私たちの心が聖書以外のことに満ちているとしたら、聖霊が働いてくださる機会を逸してしまう。テレビや雑誌、有名人のことば、占い。また、気になっているだれかのことば。それらによって私たちの心が占領されているとすればどうだろうか。心に隙だらけということにならないだろうか。

 みことばによって主は私たちにご自身のお心を示そうとされており、そのおことばを受け取るようにと勧められている。みことばを通して神は私たちと親しい関係をもつことを望んでおられるのだ。しかし、それ自体が新しい律法になってしまい、重荷になったり、逆に定期的に読んでいるから自分がなにか偉い者になったかのように思ってしまうとしたら、それもまた大きな誤解である。また、みことばを読むことにより私たちの罪が赦されたり、救われる条件になりえないことも当たり前のことだが付け加えておかなければならないことだろう。

 実は、ここで聖書を読むということにおいてさえも律法主義に陥る危険性を持っており、巧妙に罠が仕掛けられていたことに気付くのだ。まるで神からもっと愛されるためには聖書を読まなければならないかのようにいつの間にか思い込んでいるとしたらそれは大間違いだ。神の愛は私たちにすでに十分に注がれており、私たちが聖書を読むか読まないか、奉仕をするかしないか、大きな罪を犯すか犯さないかによって左右されるようなものではないのだ。御霊ではじまった救いは肉によっては完成されないのだ。それらのことも御霊の剣によって武装してればだまされないですむことだ。

 KGKの歩みを通してキリスト者が御霊の与える剣を受け取り、悪魔の策略や罠を見破りそれらを切り捨て、全生活を通しての証しを立ててゆくことが出来るようにと願ってやまない。


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